ホイアンは16世紀末から17世紀にかけて、諸外国との交易港として栄えました。港町としては19世紀まで続きましたが、最盛期は17世紀。日本や中国、オランダといった国々が往来していたころです。ホイアン民俗博物館では、当時のホイアンに暮らす人々の生活様式を模型で解説しています。英語の説明があるほか、模型を見ているだけでなんとなく意味が分かるので、説明書が理解できない方でもきっと楽しめることでしょう。
アクセス
出入口は前後2つあり、グエンタイホック通りとバクダン通りからそれぞれ入場することができます。また、入口入った正面に置かれている絵画などは購入することも可能です。グエンタイホック通りは、チャンフー通りとバクダン通りの間に並行して走る道。両通りのように人が行き交う量は多くなく、日陰で休む観光客や、談笑に耽る現地人の素朴な光景をのぞくことができます。
ホイアンの人々はどんな生活をしていた?
ホイアンの人々は当時非常に素朴な生活をしていました。それもそのはず。17世紀当時はフエに阮王朝が国家を築いていましたが、ダナンやホイアンまでは発展するはずもなく、田園風景がただただ続く田舎町でした。しかし、阮朝が目を付けたのは、ホイアンのバクダン通りに広がるトゥボン川です。じきにここホイアンは、交易の主要場所として町が形成されることになりました。
漁具のほとんどは竹で作られています。これらはすべて魚を獲るための道具。ホイアンの伝統舞踊を鑑賞できる>ホイアンシアターでも、これらを使ったユニークな舞をみることができます。
手工芸品もここで生まれる
ベトナムの伝統工芸品といえば、刺繍、木彫り、陶磁器などいわゆる手工芸品です。ホイアンにはこれらを作る職人も多く暮らしていました。現在でも陶磁器の村と木彫りの村があり、観光で行くこともできます。
また、刺繍はすべて手刺繍で、手先が器用な女性によって作られました。刺繍は数十の色づかいにミリ単位で施される細かい縫い目が特徴。良質なものは立体的に膨れ上がり、独特の手触りを持ちます。
写真のこちらミシンをする女性ですが、これもベトナムでの生活習慣の一つ。いまでも町を歩けば道端でミシンで服を縫製しているベトナム人がいます。彼らに破れた服を持っていけば、すぐに直してくれます。女性なら誰もがある程度の縫製をすることができるのは、ベトナムにおいて、家族を守るのは男性ではなく女性の役目だったからにほかなりません。たくましいですね。
日本でも馴染みある蚕のシルク製品。ベトナムでは日本で買うよりも数割安く購入することができます。ただし、シルク製品はベトナムにおいても高値で取引されていて、伝統衣装のアオザイはシルクで作られたものが最高品質と言われています。
ベトナム人の当時の服装
当時の庶民の服装です。アオザイも当時からあったみたいですね。その隣の赤いワンピースはスリットがはいっていて、中国のチャイナドレスのようでもあります。ベトナムは当時も中国を宗主国として朝貢していて、中国文化の影響はベトナムの文化の根底に浸透していました。それはアオザイも同じで、現在のようにカラフルでさまざまなデザインが施されるようになったのは、ベトナム戦争以降。フランス統治時代に彼らの自由で美しいデザインを取り入れ、アオザイが国家指定の服でなくなったベトナム戦争後となります。
日本との関係もうかがえる
こちらの写真も民俗博物館に展示されているもの。こちらはコピーの絵画ですが、よく見ると着物を着た女性や、腰に刀を下げている男性がうかがえます。こちらの絵画は、日本の長崎からホイアンに船が着く場面。当時日本は徳川家康の江戸幕府の時代でした。家康は鎖国がはじまるまで、積極的に外国と交易をしていました。その朱印船との交易の様子です。本物は日本の博物館の方に展示されています。
冠婚葬祭の様子
ホイアンの祭りの様子。雨乞いや豊作を願う祭りは定期的に開催されていたようです。また、毎年秋にはユニコーンダンスが行われ、ホイアンの人々が月光の下で闊歩し、健康や幸運を願っていました。
当時の時代を想像してみる
民俗博物館を通して、当時のホイアンの人々がどのような生活を営んでいたのかが分かります。特に交易が栄えていたときは、おそらく日本の江戸の城下町に似たような町並みが続いていたのでしょう。
<DATA>
名称:ホイアン民俗博物館(Bao Tang Van Hoa Dan Gian Hoi An)
住所:33 Nguyen Thai Hoc St. 62 Bach Dang St. Hoi An
営業時間:8:00〜17:30