1802年~1945年まで長きにわたって中北部フエにて政権を握っていた、阮朝皇帝。初代ザーロン帝から歴史ははじまり、その4子となるミンマン帝が跡継ぎとなり、2代目皇帝の座に就きます。ミンマン帝の死後作られたこの廟は現在では世界遺産に指定されている広大な敷地。まるで公園のようでもあります。当時ミンマン帝の権力がうかがえます。
個人で行くのは困難。ツアーで回ろう
ミンマン帝はフエ市内の中でもかなり南方に位置しています。個人で行くと道に迷いますし、タクシーだと料金も心配です。往復だとかなりかかってしまいますね。おすすめはミンマン帝廟にはじまり、カイディン帝陵、トゥドゥック帝廟など世界遺産を回る半日ツアーへの参加です。午前中に終わりますし、午後に阮朝王宮とティエンムー寺に行く1日プランもあります。とりあえずこのツアーに参加すれば、フエの最大の名所と呼ばれるスポットは一気に巡ることができます。
中華要素たっぷりのミンマン帝廟
ミンマン帝入口門を抜けた先にまず最初に見学することができる像。人物像のほかに馬や象も等間隔で並んでいます。カイディン帝陵でも見られますが、これらの像は死者の霊魂を守るために作られたという説が有力のため、廟や陵に建てられていることが多いです。
あちらこちらに目につくのが中国風の装飾や石像など。
ミンマン帝の在位期間は1819年~1840年の約20年間。歴代皇帝の中でも最も博識で有能で、政治力に長けていたとされています。その一方、中国の清国を宗主国とする意識が強く、初代ザーロン帝が築いたフランスとの協力関係も無碍にしてしまったことでも知られています。
顕徳門と紫禁城
ミンマン帝が中国贔屓だったことを象徴するかのような格調高い楼門。こちらは顕徳門と呼ばれ、3つの門が備えられています。しかし、ご覧のように中央の門は固く閉ざされているのがわかります。こちらは中国の故宮:紫禁城を意識したものとみられます。紫禁城同様、中央の門は皇帝と皇族専用の門となります。身分によって出入りできる門が異なるのが特徴的です。
ミンマン帝は従来行われていた科挙に殿試を加えました。これは科挙に合格した者が、最後に皇帝直下で試験を受け、のちの地位と高官の順位に大きく影響したとされています。これも身分格付けを尊重としてたミンマン帝ならではの思想といえるでしょう。また、この殿試にはキリスト教を排除する意も含まれていました。
崇恩殿
ミンマン帝にまつわる石碑
こちらの石碑に漢字でミンマン帝の功績が刻まれています。ベトナムの歴史ではこのように石碑に刻みこむのが一般となっています。ちなみに日本は紙に書いて後世に伝えるのが古くから主流です。この違いは文字文化の違いでもありますが、石碑の場合は紙よりも風化が早いので、解読が困難な場合が多々あります。それにより、日本の江戸時代、つまり1600年代頃であっても不明点が多く、なかなか歴史が明確にならないことが石碑の欠点として挙げられます。
ミンマン帝の墳墓へと続く石畳
敷地内最奥部には墳墓へと続く石畳の道があります。大きな池の上の真ん中に伸びる道はさらなる石段へと続き、その上にある門は常に閉ざされています。この奥に遺体が眠っているはずなのですが、実は遺体の場所は不明らしいです。
墳墓へと続く道に背高くある門の装飾は美しく中国風で、頭上には「正大光明」との文字が。清国の皇帝も使っていた言葉です。
ゆっくりと見て回ろう
ミンマン帝廟はこれから回る廟や陵の中では王宮に続く広さを持っています。観光時間は約1時間程度。日中は暑いので、楼内で休みながらゆっくりと散策してください。